小説『罪の声』

「グリコ・森永事件」を素材にした塩田武士氏の小説『罪の声』を読みました。

 

事件があった1984年当時、私は高校3年生で受験勉強に集中しており、テレビもほとんど見ていませんでしたので、事件の詳細は知りませんでした。それでも、長期にわたって世間を震撼させた大事件ですから、事件の記憶は意識の底に澱のように留まっており、ニュースで流れた「空き缶の中」という子どもの甲高い声とともに、不意に意識の上に昇ってくることがありました。その「グリ森事件」を素材にした小説がベストセラーになっているというので、気になり、手にしたという次第です。

 

小説は、被害会社の名称は変えていますが、事件の日時、場所、犯行グループの挑戦状・脅迫文、報道の経過等については史実を忠実に再現したとのことで、よく知らなかった事件の経過について知るだけでも興味深いものでした。加えて、現代を舞台とした登場人物をめぐるストーリーの展開も面白く、作者のストーリーテラーとしての力量は、確かに作品がベストセラーになるに値するものだと感じました。

 

ですが、作品の終盤に至り、私は次第に強い違和感を覚えるようになり、読み終えて不快な読後感が残りました(以下、ネタバレを含みますが、御容赦ください。)。

 

作品の終盤、2人いる主人公の1人である新聞記者は犯行グループの1人の所在を突き止め、対峙します。犯人は記者に対し、犯行の経緯や動機について何故か滔々と物語るのですが、聞き終えた記者は、犯人に対し、それで社会が変わったのか、どんな社会なら良かったのか、と難詰し、さらには「あなたには正義がない。」と面罵します。

 

世紀の犯罪を敢行した大悪党に「正義」などなくて当然で、それを「正義がない」と罵って何になるのでしょうか。あるいはそれは、「悪人」を理解不能の者、自らとは異なる世界に住む、異なる種族と位置付け、自らがこれと異なることを確認することで、自分は「正義」の側に立つ者、「善良な市民」だと再確認する試みなのかも知れません。

 

実際には私たちは確たる倫理観を持つことが困難な時代を生きています。そして、実際、ある人を救う行いが他の人を傷つけ、苦しめることがあるのであって、何が倫理的に正しく、何が誤っているのかの判断は容易ではありません。私たちは、日々、何が「正しいこと」で何が「悪いこと」なのか、判断に迷い悩みながら生きています。その過程では、一定の「悪いこと」あるいは「悪いかも知れないこと」を全て避けて通ることができません。もとより、刑事罰の対象となるような行為は、超えてはならない一線として、強く抑制がかかることとなりますが、それでも、その「一線」の境界さえも、ときには微妙となります。

 

たとえば、小説中の「正義」を振りかざすその記者がやっていることは何かといえば、全国紙という商業ジャーナリズムの一員として、年末の特別企画に間に合わせるため、「そっとしておいて欲しい」と願う関係者(犯人の親族等)を追い回すという仕事です。それは、仕事であり、彼が生きるためにやらねばならないことであり、国民の知る権利に奉仕するという側面を有する価値ある営みですが、その一方で、取材対象者等のプライバシーや生活の平穏を犯すおそれのある(その意味で「悪い」かも知れない)行為です。

 

その記者が何の恥じらいも無く「正義」を振りかざすのはお笑い種ではないか、と思うのですが、記者が「正義」を持ち出した後、この小説では地の文を含めて記者の「悪さ」に対する内省を見て取ることが出来ません。

 

私たちが抱える「悪さ」と「大悪党」の「悪さ」は地続きです。彼らは愚かにも一線を越え、私たちは越えていません。しかし、私たちも、少し来し方が違えば、「大悪党」の部類になっていたかも知れませんし、今後、一線を踏み越えて「大悪党」ではなくとも「小悪党」ぐらいになる可能性がないとは言い切れません。 私は自己の「悪さ」に対する罪の意識を常に抱えて生きる近現代人の生き辛さを描く小説に共感します。

他方、「犯罪者」「悪党」対「被害者」「犯罪と無関係な善良な市民」という二分法に依拠した小説は、人間と社会についての洞察を欠いているように思えてならず、とても共感することが出来ないのです。